火星の人類学者 [書籍]

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旧知の冒険から再掲載(2006年4月17日)

「症例を生き生きと伝えるには、ある種の小説家的な才能、ドラマティックなセンスが必要だと思う、そうでないと、人物が生きてこない」からだというのは、オリバー・サックス著による『火星の人類学者』の訳者あとがきの言葉である。この訳者の言葉に僕の得た万感の思いが凝縮されている。本書に登場する脳の病をもった7人の患者たちは、それぞれに個性をもち、独自の生き方を貫いている。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者
オリヴァー サックス, Oliver Sacks, 吉田 利子 / 早川書房(2001/04)

たとえば、本書に登場する人物、ヴァージルのストーリーがある。ヴァージルは幼いころから目が見えなかったが、妻となる女性の勧めで手術を受け、中年になってから目が見えるようになった。ところが、今まで手で触ってみていたものと眼で見ているものを一致させて認識できないために、”見える”という彼にとっては異常な世界へおかれてしまうことになる。

私たち健常者は眼でものを見るが、ヴァージルにとっては眼で見ることは見えることにつながらないのだ。彼は触ることではじめて見えてくる。視力回復で期待したチャンス以上に大きな戸惑いが生じ、その戸惑いの中で葛藤するヴァージル。自分の勧めで手術を受け、眼が見えるようになったのに、そのことによって苦悩する夫を支える妻。その様子を観察し見守る著者の姿。

最終的にヴァージルはまた盲目に戻ることで彼にとっての落ち着いた世界に身を落ち着けるわけだが、彼らの物語を通して我々が認識する見えるとは何であろうか?ということを考えさせられた。

もしかしたら、「見えていても見えない」ということは、ヴァージルに限ったことではなく多くの人々が少なからず経験していることなのかもしれない。同じテレビのシーンを見ても男と女、子供と老人では感じ方が違う。同じ論文を読んでも、背景知識の差によって興味深いと感じる人もいれば何も感じない人もいる。

”見えて”いるものは同じであっても、”見て”いるものは異なるということもあるだろう。「見える」とは経験によって異なる概念であり、見えているひとにしかわからない世界がそこにはあるのかもしれない。

このほかにも、人生の途中から全色盲になってしまった画家、脳腫瘍のために過去のある時点で記憶が終わってしまった青年、奇妙に飛び跳ねたり奇声を発するトウレット症候群にもかかわらず凄まじい集中力を発揮して手術をこなす医師の話などが登場する。

奇妙に飛び跳ねたり奇声を発するトウレット症候群の医師や、自分のことを「火星の人類学者」みたいだと評した自閉症の女性科学者などは、日本の環境では成り立ち得なかったように思えて仕方がない。同じような症状を持った人々が果たして日本で同じように生きていけたであろうか?

当然、本人たちの才能、努力もあっただろうけれども、驚異に満ちた障害を抱えながらも周囲の人々に支えながら暮らしていける恵まれた環境が存在していたことにも敬意を表したい。

著者であるオリバー・サックスは、脳の障害を通じて我々に他者を受け入れることの大切さを伝えてくれているのかもしれない。